2008/02
電気学会会長 榎本武揚君川 治



 黒田清隆は伊藤博文の後を受けて第二代内閣総理大臣となり、元老、枢密顧問官、枢密院議長を歴任して明治33年に亡くなったが、その葬儀委員長は榎本武揚であった。
 五稜郭で共に篭城した優秀な旧幕臣達、大鳥圭介(陸軍奉行)は工部大学校長、学習院長、荒井郁之助(海軍奉行)は初代気象台長となり、共に科学技術分野で活躍している。
 川崎にある電気の史料館で「日本の電気の歴史年表」を見ていたら、初代電気学会の会長・榎本武揚とあるのに気づいてびっくりした。こんな名前はそう多くある筈ないと調べてみると、あの箱館戦争を指揮した榎本武揚に間違いないことが判った。
 勝海舟の江戸城無血開城に反対したのは小栗忠順のほかに榎本武揚がいた。徳川幕府の直轄地は800万石、それを70万石に縮小したため、これでは30万人の幕臣が路頭に迷うことになるので蝦夷地を賜りたいと朝廷に願い出たが許可されなかった。そこで榎本武揚を中心とする旧幕臣は総勢2200〜2400名で蝦夷共和国樹立を宣言し、五稜郭、箱館、福山、江差、福島、室蘭に配置した。最後は五稜郭に篭城し決戦となるが、朝廷軍黒田清隆の説得に応じて降伏。それから3年間牢獄暮らしをしたが、黒田らの奔走で許されて維新政府の出世街道を上っていった。
 榎本武揚は幕臣の頃、長崎海軍伝習所で勝海舟らと共に学び、1862年からオランダに3年間留学し、海軍の技術だけでなく広く西洋の進んだ文化を学んで帰国した。
 オランダ留学の時、モールス電信機に着目して購入し、それを寝室と居間に据付けて取り扱い方法を習った。彼は帰国後に江戸・横浜間に敷設しようと考えて、電線や碍子、その他必要な部品も購入して持ち帰った。しかし、戊辰戦争が始まり、電信線敷設どころではなくなったため、これらの装置を築地の海軍倉庫に保管しておいたが、その後は行方不明となってしまった。
 榎本武揚は黒田清隆の推挙もあり維新政府で海軍中将、ロシア全権公使、海軍大臣、逓信大臣、農商務大臣、文部大臣、外務大臣を歴任した。逓信大臣の時に電気学会会長となるが、オランダ留学時にモールス電信機を購入してきた榎本武揚は飾り物の会長でなく充分その資格が有ったと言えよう。
 この電信機には驚くような後日談がある。
 明治21年の電気学会例会において、逓信技師・吉田正秀が「日本電信の沿革」と題して講演した。その際、沖電気の創設者・沖牙太郎の所有するモールス電信機を展示して、「この電信機は非常に精巧に造られており、大いに参考になる。沖牙太郎君が愛宕下の古道具商より購入したもので、いつ頃渡来したものか判らないが、オランダ製のものと思われる」と説明した。この時、臨席していた会長の榎本武揚がこのモールス電信機をつぶさに調べ、「これは自分が留学中に購入して持ち帰った電信機に間違いない」と奇しき再会となった。
 榎本武揚は日本の通信技術の発展に一石を投じた人である。これほど活躍した人なので記念碑とか記念館が無いかと探したがなかなか見当たらない。墨田区堤通りの大きなマンションが立ち並ぶ中に小さな梅若公園があり、ここに榎本武揚の銅像をやっと見つけた。1913年(大正2年)の建立である。榎本は引退後この近くに住み、隅田川の堤を馬に乗って散歩していたようだ。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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